「子供の時の私は、子供のように話し、子供のように考え、子供のように判断していました。しかし、大人になると、考え方も成長
    して、子供時代とは違い、今では子供っぽいこととは縁を切りました。」
    ‐コリントの使徒への手紙 13章11




    子供の時のお気に入りだったキュウピー人形、テディベア、またはプラスチックソルジャーのフィギュアを大事に持っていた人達は
    それが楽しかった思い出の巨大な倉庫であることを知っている。ちょうど大切にしていたおもちゃが楽しく暖かで幸せだった子供の
    時を思い出させてくれるのと同じように、失われ、捨てられたおもちゃが思春期の抑圧された記憶や、禁じられたゲームをすること
    からくる根深い罪の意識を忘れさせないでいる。

    放棄されたおもちゃがすぐさま受けつけられなくなる一方、失われたおもちゃは心理学フロイト派がいう深層心理から追い出された
    何かを表している。何れにしろ、その結果は同じなのである:世の中には子供っぽい無意識さが一般的なのである。駐車場、歩道、
    ガラクタ屋で見られるようにこのようなおもちゃは―われわれがむなしく修正しようとしているような状況、つまり、その意味のあ
    る内容や目的を欠いているのである。

    我々はこのシリーズで、これらのおもちゃを捨てていった精神的葛藤を抱える子供達を、そのおもちゃを使ったミニチュアセットの
    中でミニ精神ドラマを描き出す設定を作り出した。その劇的場面は、かすんだ選択的な記憶をかもしだせるよう浅いフォーカスで写
    し出している。これにより精神葛藤を抱えたおもちゃの元々の持ち主の想像的経験(カタルシス)を代理にして成し遂げようとして
    いる。

    デービス&デービス


    子供っぽい物の日常的な生活
        タイラー・スタリングス著

    小さな男の子や女の子はよく「何とかごっこ」をして遊ぶ。それは成長するにしたがって世の中の善し悪しを学ぶ一つの方法であ
    る。しかしもしこの創造的なシナリオが、キッチンでティーカップ一杯のこぼれたブリーチを持つ女の子、ワニの口にいる赤ちゃ
    ん、溶けた蝋の水溜りに見立てた真っ赤な血に佇む青い男の子だったらどうであろう。一体どのような教訓をこれらから学ぶのだろ
    うか?デニス・デービスとスコット・デービスのチーム、通称デービス&デービスはそこを知りたいのだ。彼らはお人形達を使いな
    がら社会的ルールがまさに始まろうという心理的な時点を作り出そうとしているのである。一方、これらのおもちゃは細心の注意を
    持って舞台化され、ほぼ不可能に近い生き生きとした姿をとらされてライトを浴び、またか細い糸の助けを借り、特別でありながら
    正道とは言えない本物のおもちゃの本物の世界をかもし出す努力をしているのである。

    デービス&デービスはきれいなバービー人形や格好いい怪獣人形を使ってはいない。彼らはわざわざ捨てられた、がらくた屋で拾わ
    れた人形達を使っているのである。それらの人形は、ゴム、木、陶器、プラスチックなど様々な原料で出来ており、その製作時期も
    20世紀前半から今日に至るまでとさまざまである。しかしデービス&デービスはこのお人形達に、映画「マジック」の凶悪な腹話術
    人形や、「チャイルド・プレイ」の男の子に愛されながらも殺人鬼の心を持つチャッキーのようなのどこか気持ち悪いながらもどこ
    か愉快なエピソードを与えることで元気を出させるのである。同じようにデービス&デービスの人工的であり、かつしなやかな悲劇
    俳優たちは人形サイズを超えた大きさの写真上では我々にまるで本当に生きているかのように感じさせるのである。

    しかし、なぜ人形が本物の人間に対抗できるのだろうか。デービス&デービスはそれが自らそうなったか、意図されて写真となった
    ものかにはかかわりなく、たいへん微妙な仕草の変化が気持ちを非常に不安にさせるということの真をつくためにわざわざ人形を
    使っているのである。何れにしろ、本物であろうと作られた物であろうとも彼らの目的を達成するためには互いが必要となるのであ
    る。

    世界的に見て、人形はそれが定型化されたものからくるため、とても典型的であると感じられる。人形は生産者のイメージではな
    く、何かもっと崇高な所から作り出されているように思える。でも彼らが理想の極致でありながらも子供のように何の力もなく、サ
    ディスティックなその所有者の手でいかようにも操られてしまうのである。この人形と日常的な所有者の生活に潜む純粋さと罪とい
    う相反するメッセージがデービス&デービスに不安を掻き立てさせながらも、なおかつ魅惑的なイメージを創造させるのである。

    作品の中には大人の人形もいくつかの場面で出てくるが、なんといっても子供の人形がここでは中心である。本書のレイアウトで
    は、デービス&デービスは誕生、幼児、思春期と、穢れのないものから堕落したものまで、そのようなモラルのクラス分けがまった
    く意味がないことであることを示唆している。

    本書は先ず「トム少佐」(第二場面)というタイトルのおもちゃの宇宙飛行士が無重力の宇宙で、エアーホースがへその緒であるこ
    とを意味しながらも母体とはつながっていない状況を作り出している。ここで本書が実は陰気なトーンであることが設定付けられて
    いる。達成とは孤独と隣り合わせであり、人間は世の中で孤独であり、星に手が届くということは実は人間が転がる坂の始まりにい
    るということを暗示している。しかし、この場面のみならず全ての場面で人形を使っていることは「遊びの力」は自己の持つ想像力
    という安全壁の中で恐怖感を味わってみるという絶好のチャンスなのである。

    次の場面は、「ピス・ベイビー」という作品に続く(これは、かつて議論の的となった「ピス・クライスト」(尿のなかに磔刑のキリ
    スト像を沈めて撮影したもの)というアートを賢く示唆している)。ここでは赤ちゃん人形は尿の中で、それがまるで羊水であるかの
    ように漂っている。しかしこれもまたデービス&デービスは、母性、幼年時代、またそれが持つ宗教とのかかわりというものが、実は
    純真であるという神話なのではないかと疑問を問いかけているのである。また家族がかかわりあうということではデービス&デービス
    は4枚のイメージがひとつとなってタイトル付けされている「ラルフ家」を出している。父さん、母さん、姉ちゃんと赤ちゃんはそれ
    ぞれにこの家族の苗字であると思われるものを駄洒落としてトイレで弓なりになっているのである。また、性への目覚めの複雑さと
    いうものも本書の後半において、「ベンド・オーバー・ボーイ」(腰を曲げる男の子)で示している。ある若い、きちんと服を着た
    男の子が人形にしか出来ない90度に腰を折り曲げながら、そのお尻をこの場面の外にいる誰かに差し出しているのである。男の子の
    果たして正しいことを行っているかどうかわからないでいるかのような顔はこの写真を見ている我々に対しガイダンスを聞いている
    ようかのようである。しかし、われわれにしろこの男の子にしろどうしようもないのである。この男の子は意思疎通をとる口にかけ
    ており、我々はガラスの向こう側からただ眺めるだけで何も出来ないのである。

    またさらに進むと、セックスが楽しいお遊びであり同時に力関係が絡んでくる瞬間であることを四場面構成の「ベンディー・バ
    ニー」(屈みこむウサギちゃん)(サブタイトルとしてそれぞれに「肛門」、「口腔」、「生殖器」)と題された作品となる。ここ
    でもまた、デービス&デービスは別のアーティスト、ここでは1980年代後半にサドマゾ的行為を客観的に写し出した写真が既得され
    ていた国費奨励認可を剥奪された、ロバート・メープルソープに敬意を示しているのである。

    「キャンディー」(写真61)は本書の最後のイメージであるが、本書全体に流れる複雑な抑圧された欲望を要約する姿なのである。
    ここにはもう少し年齢がいった裸で金髪の伸びた女の子がプラスチックの宝石のようなカーテンを少し開けている姿で後ろに立って
    いるというものである。その子はまるで大人の世界に住んでいるようでありながら、まだ子供であり、ましてやおもちゃなのであ
    る。眺めるものとしては宝石のようなカーテンに、たとえそれが社会的問題を呼び起こしたナボコフの小説「ロリータ」または、写
    真家ジャック・ステューゲスが描き出した牧歌的な背景に裸の子供がいるという、子供を性的な目的にするということではなく、本
    来の生命の喜びをたたえるものを描き出すというものにキャンディーと同じように魅かれるのである。この本の全体を通じてここに
    あるイメージは見る者に、このアーティストとおもちゃのモデルとそれを見る人間に対し一体どのような関係があるのかという疑問
    を抱かせようとしているのである。

    さまざまな現実がお互いがオーバーラップするようにデービス&デービスは何時間をもかけ人形をいろんな向きにしたり、手渡した
    り、人類学か何かを調べるような、時には罰当たりな格好をさせるのである。このようなプロセスにおいて彼らは一体人形が製造元
    の元々の目的を超えて何を言わんとしているかを自らに問いかけている。

    それに答える質問のどれもが曖昧なもので満たされることとなる。例えば、「ウオーム・ガール」(写真60)では眠り姫として生ま
    れた人形が官能的な深いオレンジ・レッドを背景とし、見る者に背を向けながら、そのドレスの端を手でつかみ、その顔は床のほう
    に向けられ椅子の上に立ち、漫画のようなニコニコ顔をしている眠り姫と比較してみるとはるかに巨大な芋虫を見つめているのであ
    る。ここでのシナリオは遊び心たっぷりでいてどこか脅迫的なものである。お姫様のようなドレスを着る女性は芋虫におびえていす
    に逃げて立っているのか、或は芋虫を招き入れるようにスカートをあげて見せているのか、というのも当の芋虫は大きな意味深な笑
    みを浮かべているのであるから。
    デービス&デービスはそれがいかに悪意に満ちようが甘美であろうが自然な場面に合うようなポーズをとらせようとしている。1990
    年代に名をはせるようになったジェフ・ウォールやグレゴリー・クリュードソン、フィリップ・ロルカ・デコルシアのような舞台化
    した写真という近代の伝統に続くものである。これらのアーティスト達はそれ以前の写真家、約90年以上も前に撮られたゲーリー・
    ウィノグランドやジョエル・マイロウィッツの路上写真や、近代ではナン・ゴールディンにヒントをもらってきたりしている。また
    は20世紀初頭の疑いようのない写真家でであるアンリ・カルティエ―ブレッソンにさえ行き着くのである。これら全てのアーティス
    ト達に共通する点は、それが格好のよい街のスナップ写真であろうが、映画撮影と同様のスタッフが必要とされるような複雑な舞台
    セットを作り出すことであろうが、撮影対象が最もマッチした状況を撮りたいというものなのである。

    ある時には写真はレンズの前に見えるものを捉えるという点で最もリアリズムを追求できるものとして考えられていた。しかしそれ
    から100年余りが経ち、写真はデジタル的にまたは単にそれをステージさせることで人工的に作り出すことが出来るようになってい
    る。しかし実際的な知識を持つ者達でも、絶対に起こり得ないことが起こったかのように見せかける為に人工的に作られた写真に即
    時に現実性を与えたいという皮肉な欲求を持ってしまうのである。

    「バンジーベイビー」(写真17&18)はこの一般的な最先端の写真アートコミュニティー中の相反する欲求を例示している。この作
    品で鑑賞者は、生身の役者がすべて自分でできてしまうおもちゃと置き換えられているデービス&デービスのステージされたクオリ
    ティーを思い出させられるのであるが、その後、彼らがその仕事をポーズやシナリオの選択により生まれる写実主義を過剰に供給し
    ているのであることもリマインドさせられるのである。

    ここでは、郊外のとある家の脇をビジネススーツの男が腕を伸ばしながら走り、頭から先に窓から投げられたような赤ちゃんを
    キャッチしようと走っている。デービス&デービスは器用にその男をちょうど両足が大地を離れる瞬間を、地上からちょっと上に吊り
    下げることにより、彼が瞬時に感じたパニックによって引き起こされた飛び出すという行為と、その赤ちゃんが誰か知られない者に
    よって追い出されて空中にいるという瞬間を器用に現している。この対象が人形であるとはいえ、見るものは瞬時ではあるがフォト
    グラファーがどうにかこのおもちゃの社会の近所を通りかかり、叫び声を聞き、その確かな目を持ってこの哀れな状況を移したのだ
    と息を飲むのである。

    しかし、憤慨を感じるのはこの写真のタイトルを思い出すからであり、この赤ちゃんは安全にうちに戻れることが分かるからであ
    る。これはルーニーテューンズのアニメにあるように‐例えばバグス・バニーのように‐多くの暴力がある一方、誰も死なないのであ
    る。これはそれが視覚的なギャグであることを大人は理解でき、また普遍的に子供を楽しませるギャグとして機能するものであるこ
    とを知っているからである。この両方の存在、ユーモアのシリアスな側面が、このようなアニメとデービス&デービスのイメージが
    深く結びつく永遠のものとしているのである。

    デービス&デービスのコメディーと悲劇に潜むブラックユーモアはダイアン・アーバスとジョエル・ピーター・ウィトキンのような
    フォトグラファーの伝統に継ぐものである。アーバスはサーカスの奇人や変わった特徴を持つ人々の写真を撮ることでよく知られて
    いる。彼女の写真は人間であれば誰もが持つ、見捨てられたものに対するエキゾチックな魅力と複雑な命の内部を伝えるという極細
    い線を行き来する。また、ピーター・ウィトキンはもっとシュールレアリスト的伝統からきている。ウィトキンは生涯を通して両性
    具有者、小びと、肢端切断者や死体安置所から借りてきた人体の一部を撮り続けた。彼は奇形を大きく取り扱うことに対し何の罪の
    意識を感じることなくその対象者たちを劇的場面に配置するのであるが、その被写体達がそのように写されるということに同意して
    いるということにおいて、ウィトキンは無神経な者とは認識されないのである。それはフォトグラファーであろうとモデルであろう
    と誰も、異常な人体の一部の明白さに恥を感じることはないのである。

    人間の暗い部分を探る芸術家と同じように、デービス&デービスはショックを与えようとしているのではなく、我々鑑賞者が如何に
    世界観を映し出し、如何に我々自身を描写するかということに敏感となるのを助けているのである。彼らは我々の子供時代、大人に
    なってからのこと、我々の理想、そして我々のユーモアのセンスに対し疑問を持ってほしいのである。彼らの先人達のごとく、デー
    ビス&デービスも、それがたとえフォトグラファー、モデル、大人、子供であったとしても、大切にされた無垢の神話をしぼませた
    いのであり、誰一人としてそんなに穢れのない、罪なき者ではないということを思い出させようとしているのである。


    Newsへ戻る