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藤田嗣治(Leonard Foujita)の未発表作品確認!

Posted in New! by Administrator on the September 12th, 2011

今年の8月末、箱根ポーラ美術館から同館に個人コレクターから今年寄贈された作品群から藤田嗣治(Leonard Foujita)の未発表の油絵作品、37点が確認されたと発表されました。

藤田嗣治(Leonard Fujita/レオナール・フジタ)は猫と女性を描くことを得意とし、日本でも近年再評価がなされ、人気が高いアーティストでご存知の方も多いと思いますが、実はフランスにおいて最もよく知られた日本人近代画家でもあります。

「オペラ座の夢」


「猫十態 母猫と仔猫」


今回の藤田未発表作品確認のニュースに際し、藤田嗣治の足跡をたどってみたいと思い今回のブログとなりました。

藤田嗣治・ポートレート 1927

1913年(大正2年)に若干27歳で渡仏し、当時その家賃の安さから芸術家が集まったモンパルナスに居を構えます。日本では東京美術学校(現在の東京芸術大学)で西洋絵画を学びますが、当時の画壇の権威であった黒田清輝の印象派や写実主義の技法中心のやり方と相いれず、文展などにも作品を出品するものの落選していました。

東京美術学校在学時の作品 1909年

モンパルナスではアメデオ・モディリアーニと隣の部屋に住んだことなどからモンパルナスアートグループであったエコール・ド・パリ(パリ派)の芸術家たち(パブロ・ピカソ、アンリ・ルソー等々)と知己を得ることになっていきます。下記の作品は渡仏し、後の藤田の作風が確立されていく過程をよく表す作品群です。

「Cyclaments」 1917年


「Mere et Enfant」 1917年


「家族」 1917年


「生誕 於巴里」 1918年


「Children and dall」 1918年


「二人の女」 1918年

渡仏してすぐに始まってしまった第一次世界大戦の為、日々の生活にも窮した藤田でしたが、終戦を迎えた1918年頃からその面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風(1921年のサロン・ドートンヌでその画風は「乳白色の肌」と讃えられます)と精緻な表現が絶賛を集めます。藤田の日本画を髣髴とさせるような「乳白色の肌」と黒い描線と陰影は当時のパリ画壇でもひときわ衝撃的な表現であったと思われます。こうして藤田はパリに於いて「サロンの寵児」と呼ばれるほどの人気を得、成功をおさめます。これは当時のエコール・ド・パリの仲間たちやモンパルナスのアーティスト達の中では経済的な成功をおさめたものは少数で、、ましてや日本から出てきた異国人としては大変な快挙でありました。

「横たわる裸婦とネコ」 1921


「寝室のキキ」 1922年


「タピスリーの裸婦」 1923年


「L'amitié」 1924年


「裸婦と猫」 1923年


「裸婦」 1923年


「靴を履き坐せる裸婦」 1926年


「闘争2」 1928年


「馬とライオン」 1928-1929年

第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパはその後の第二次世界大戦までの間に新しい芸術運動と狂乱にも似た饗宴にあふれ、藤田の東洋のエキゾチズムを湛えた繊細な作品は大変に高い評価を得ました。


1929年に17年ぶりにフランスでの数々の勲章を受章しての日本凱旋を果たします。パリにて藤田を特徴づけていたのは彼の画風もありましたが、彼独特のおかっぱ頭、ちょび髭に丸メガネという格好に、「フーフー(FouFou、お調子者という意味)」というあだ名がつくほどの奇功パフォーマンスでした。

このような奇異な行動と何度も結婚を繰り返し、派手に思われた女性関係から日本画壇では決して芳しくなかった藤田の評判でしたが、帰国後の展覧会では高い評価を受けています。しかしこの年に始まった世界恐慌はその後パリに戻った藤田にも暗い影響を与えます。恐慌で美術市場は低迷。また、それまでのエコール・ド・パリ時代のようにサロンで持て囃されることも少なくなっていました。

しかし、変化を求め1931年に行った南北アメリカでの個展は大成功となります。

「仰臥裸婦」 1931年


「横たわる裸婦と猫」 1931年


「キツネ売りの男」 1933年


その後日本へ戻った藤田は1938年から1年間ほど嘱託を受け従軍画家として画家の小磯良平たちと中国へ赴きますが、1939年に帰国し、そのまま再びパリへと向かいます。しかしながら第二次世界大戦の勃発を受け、翌年パリがドイツ侵攻を受ける直前に再度日本に帰国します。

「猫のいる静物」 1939-40年


「猫(闘争)」 1940年

日本に戻った藤田は家系的に日本の軍部とつながりが大きかったこともあり(父、藤田嗣章は森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄、嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野、従兄は小山内薫)、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請されます。

はじめは乗り気がしないで戦争画に携わるようになりますが、1939年5-10月に起こった「ノモンハン事件」をこの戦いに参加した陸軍中将・荻州立兵から、戦死した部下の霊を慰めるために画を描いてくれと個人的に依頼され「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」を精魂こめて描き上げたことを契機に、そこに新しい表現世界を見出しのめりこんでいきます。

哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘(全景)


哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘(部分近景)

戦時中に数々の戦争画を藤田は描いていますが、その絵のどれもが当時の戦争画の主流であった「戦争賛美」的なものとはかなり違い、戦争の恐ろしさ、惨さを表したものだと思います。藤田の戦争画はフランス・ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワを代表する歴史的戦争画やゴヤの最も有名な戦争画のひとつ「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」を髣髴とさせ、ある意味、殉教画を見ているような気持になります。

「十二月八日の真珠湾」


「アッツ島玉砕」


「サイパン島同胞臣節を全うす」


「シンガポール最後の日(ブキテマ高地)」


「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」


薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(部分)


「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(部分)」

しかし、敗戦後、時の日本美術会の書記長・内田巌などにより、「藤田嗣治は戦争に加担し協力した画家である」と批判をうけ、さらに美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQ(担当米国人は藤田の以前からの知り合い)に賛同して協力したことも手伝って、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになります。ある意味、美術界の戦争責任を背負うようにして、1949年に日本を離れフランスに戻ります。

「動物宴」 1946-60年


「私の夢」 1947年


「カフェにて」 1949年

晩年の1955年にはフランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名前から)となります。またこの頃から藤田は子供を題材に多くの作品を仕上げています。

「機械の時代」 1958-59年


「機械の時代」(部分) 1958-59年


そして最晩年には自ら設計したランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペのフレスコ画に情熱を注ぎました。

ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ


ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ 内部


ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ 


ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(フレスコ画)


ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(フレスコ画)


ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(フレスコ画)


ランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペ

そしてその完成を待ったように1968年、スイスの病院で81歳で生涯を閉じました。。

さて、藤田嗣治の生涯をたどったところで、今回の未発表作品が確認されたことについてです。8月30日、神奈川県箱根町のポーラ美術館が藤田嗣治の小画面の作品で、「パイプとタバコ」や「目玉焼きを作る少女」など37点が見つかったと発表しました。晩年の連作「小さな職人たち」の前段階の作とみられ、1956年の秋から58年の夏にかけての作品です。一辺10~30センチ程度の厚紙に、油彩で子供などを描き、裏側に板をはりつける形となっているそうです。藤田はこれらの作品と重なる時期に、「小さな職人たち」という連作にて職人姿の子供たちを板に描いていて、自分のアトリエの壁に飾っていましたが、今回確認された37点の一部はテーマ的に類似しているということです。同館は近くこれらを正式に収蔵し、他の新収蔵作品とともに、来年1月15日まで開催中の「レオナール・フジタ」展に追加出品するとのことです。

今回発見された未発表作品の「パイプとタバコ」


調べてみると藤田の5度目の夫人となり、藤田の最期を看取った君子夫人が2009年に98歳で亡くなり、その後、遺族が保有していた作品を購入した個人コレクターが今年に入り同美術館に寄贈したとのこと。

また2011年に入り、藤田の作品補修の為にその絵の分析をすることとなり、藤田の「乳白色の肌」の秘密が明らかになりました。藤田は、硫酸バリウムを人物の下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を 1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていたとのことです。炭酸カルシウムは油と混ざるとわずかに黄色を帯び、また藤田の絵画からはベビーパウダー(タルク)が検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表されました。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明し、藤田がいかに苦心、工夫をし、彼独自の「乳白色の肌」を完成させたのかが判明しました。また、藤田独特の黒い線にて物事を表す表現方法は、面相筆の中に針を仕込むことにより均一な線を描いていた表現したことも修復により判明しました。(ウィキペディアより)

実を言いますと私は、藤田嗣治のことについては今回リサーチをするまでそこまで知らずにいました。おかっぱ頭でパリで日本人として初めて評価された西洋画家であるのはもちろん知っていましたし、その表現の面白さ、東洋と西洋の融合表現など、その独自のテーストにも重きを置いていました。しかし、今回37点の作品新発見により、新たに藤田の経緯を調べたり、戦争画作品の存在を知ったことにより、より藤田の作品に惹かれるものを感じました。

終戦66年を迎え、戦争の為にある意味全く別な大きな渦に巻き込まれたアーティストの作品が今回新たに発見されたことにより、また、戦争画というまったく別な側面を考えながら藤田を考察することを素晴らしいことではないかと思い、ここに記します。