アバンギャルド・スタイルの珍しいファベルジェ作品 Very rare Fabergé work in Avant-Garde style
ファベルジェというと一般的にはロシア皇帝一族が宝石をちりばめたインペリアル・エッグを作らせたことで有名で、その作品というとどうしてもこのインペリアル・エッグを思い浮かべてしまいます。
ですが、11月に行われたEve of Russian Art Collection in Londonでオークションにかけられたのは、これまでのファベルジェのイメージを一新させ、また、ロシアのアバンギャルド(前衛芸術)ムーブメントの歴史解釈に一石を投じるような大変珍しい作品でした。
一見したところでは、これがまさか宝石だとは気が付かないほどに精巧にできています。
宝石にちりばめられたこの静物作品には、銀製の大変精巧に出来たロシアの新聞(Vedomosti SPB)の切れ端には1905年10月18日の日付があり、ロシア皇帝ニコライ2世によりManifesto(十月宣言)が署名されたことがに記載されています。
このManifesto(十月宣言)はロシア初の憲法の先駆となるもので、宣言にはニコライ2世が二院制の国会を設け、すべての国民に基本的自由の権利を保障するというものが記されていました。
そしてその新聞の横にはアバンギャルドの構成による食べ物の残り物があります。
目玉焼きにされた卵の黄身は琥珀でできており、白身は白エナメルです。
また銀で出来た2尾の魚は一つが丸のまま、もう一つは骨身になっています。
また、飲み残されたウォッカは天然水晶製、吸いかけの煙草は石英と銀によってつくられています。
銀製の非常に美しい蠅は残り物に群がり、この静物作品の二日酔いの雰囲気をより醸し出させています。
この作品にある1905年というのはとても興味深く、この作品が持つ生々しい、危険を顧みないような静物作品の構成はこれより10年は先となるロシアン・アバンギャルド(ロシアン前衛芸術)のアーティスト達がよく使うイメージとして用いられるようになるからです。
ロシア・アバンギャルドというと私が最初に思い起こすのはアレクサンドル・ミハイロヴィチ・ロトチェンコ(Aleksander Mikhailovich Rodchenko)でロシア構成主義の芸術家ですが、ファベルジェを思い浮かべることは全くありませんでした。
「この作品はファベルジェが製作した作品の中で最も興味深いものです。ファベルジェはこのほかにはこのような作品を一切しておらず、彼もまたアバンギャルド(前衛芸術)やロシア革命という時代の空気に心ならずも影響を受けたのだと思えます。」とロシアにあるファベルジェ博物館のアレキサンダー・イマノフ氏は述べています。
この作品はパリのコレクターにより80万ユーロ(約8千111万円)で購入されました。その希少性としてはファベルジェのインぺリアル・エッグと並ぶような作品ですが、インペリアル・エッグが何億円という値段であることを考えると案外安価であったといえるかもしれません。
また、ロシア皇帝家がらみでは今月12日にスイスのジュネーヴで行われたHôtel des Ventesのオークションでニコライ2世の家族の写真や関係品が総額1.6百万スイスフラン(約1億3千万円)の値をつけました。28点の写真ロットのうち、26点が予想落札価格の100倍の値がつき、このようなオークションとしては記録的なものとなりました。
ロマノフ王朝最後のロシア皇帝一家はその最後が悲劇的なものであったことから人々の関心が高く、その関連オークションは高値がついています。ロシア革命からあと数年で100年を迎えます。ロシア革命とともに終わりを迎えたファベルジェ工房(1918年に国有化)ですが、ファベルジェが創り出した芸術作品は時を超えて人々を魅了してやみません。
史上最高額($4.3M[約3億3300万円])の写真!
去る11月8日にニューヨーク・クリスティーズで行われた「Post-War Contemporary Evening Sale」でドイツ現代写真家のアンドレアス・グルスキーの作品「Rhein II」が写真作品としては史上最高値の$4,338,500(約3億3300万円)で落札されました。
この記録の前の最高額は今年5月にシンディ・シャーマンの作品「Untitled #96」が付けた389万ドル(約3億円)でした。
実はシャーマンの同作品が最高値を塗り替える前はグルスキーの作品「99 Cent II Diptychon」が、2007年にロンドンのサザビーズで170万ポンド(334万ドル)で落札されて当時の記録作っていましたから、グルスキーの作品が高額で売買されるのは珍しいことではありません。
(アート・フォト・サイトより抜粋参照)
アンドレアス・グルスキーは1955年ドイツのライプチヒ生まれ。父親は商業カメラマン。1978~1981年までエッセンの写真学校フォルクワンクシューレで学び、 1981年に前衛教育で有名なデュッセルドルフ美術アカデミーに入学します。彼の指導者はミニマルアートで知られるベッヒャー夫妻でした。ここでは 写真家であるとともに表現者としてのキャリア形成の重要性を教え込まれます。
1980年代後半には、広大な風景に人間が点在している焦点のない均一な作品を制作するようになります。 プールに点在するスイマー、山登りのハイカーなど、人間を風景の一部とした作品は初期の重要作として評価されています。
また、ポスト産業資本主義のグローバル経済が浸透した社会の代表的シーンを、多数の人が集まる、ロックコンサート、巨大ショッピング・モール、ディスカントショップ、証券取引所、サッカースタジアムに見出し作品を作り出します。
個人が巨大消費社会の中の閉じられた空間で意味を与えられている状況を表現しています。現代社会のグローバル化経済に潜む覆い隠された本質を巨大で眩いカラー作品で表現することで一気に高い評価を受るようになります。 90年代を通してスティッチング技法、デジタル技術を駆使し試行錯誤を繰り返しながら超リアルで巨大な作品制作に挑戦しています。
2001年にはニューヨーク近代美術館で個展が開催されるとともに、 同年11月のクリスティーズ・ニューヨークのオークションでは「Montparnasse,1993」が予想落札価格のほぼ2倍の $600,000で落札され話題となります。さらに、先に述べたように2007年2月7日ササビース・ロンドンでの現代アートオークションで代表作の、 「99-Cent II, Diptych, 2001」 が170万ポンド(334万ドル)というオークションでの写真作品の最高落札価格で落札されました。
今回史上最高額の写真作品となった「Rhein II」は製作総数6のエディションで、そのうち、3つは公立美術館(ニューヨーク近代美術館、テート、ミュンヘンのピナコテーク・デア・モデルネ)、1つは私立美術館(ポトマックにあるグレンストーン)にあり、2つのみが個人コレクション用となっていて、この個人コレクションの1つがオークションにかけられました。
このニュースを聞いて「この作品は素晴らしい」、「グルスキーは凄い」といった称賛のコメントの一方、多くの人々が「この作品がこんな値段がするなんて信じられない」、「たかが写真がそこまでの価値があるのか」、「アート界は金持ちの浪費の場となっている」、等など、どちらかというと批判、否定的なコメントが目立ちました。
作品自体のアート性よりも、史上最高値ということが議論になっているように思えますが、アートの価値は常に見る者・所有する者の立場からなりなっているのが事実です。
ある意味、この作品の「殺風景な川の情景」にグルスキーが何を表そうとしたのか、何を見たのか、どうやってそれを表現したのかなどを見ていくと少し本作品の鑑賞のポイントになるかもしれません。
この作品のリサーチをしていくうちにYouTubeに掲載されている以下の動画を発見しました。
この動画の50秒頃から3分40秒頃までグルスキーとデュッセルドルフ芸術アカデミーで多大な影響を受けたベッヒャー夫妻のヒラ・ベッヒャー(以下、ベッヒャー夫人)が「Rhein II」の作品についてグルスキーと話をしています。
この動画はドイツ語ですので、動画の下に同部分の日本語訳を付記しましたのでもしよろしければお読み下さい。
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<ナレーション> ヒラ・ベッヒャーは、アンドレアス・グルスキーを彼のスタジオである写真倉庫に訪ねました。80年代前半に彼はデュッセルドルフ芸術アカデミーでヒラ・ベッヒャーの夫、ベルント・ベッヒャーに学びました。
[0’50”-1’37”]
<ベッヒャー夫人> 私はこの写真がとても好き。でも、夫のベルントはそれを好きではなかったので、私たちは彼と作品に関して戦いました。彼はこの写真があまりにも抽象的であり、故に感情に働きかけないと主張しました。私はもちろんこの写真が非常に抽象的だと思います。一つに観る人は明らかに現実にあった何かが消えているのに気が付きます。しかし、私は実際にライン川がどろどろしたヘドロやプリンのような地区を通るんですが、この作品の誇大抽象化がとても好きです。この写真は本当のライン川であるものを表現していると思います。
[1’37-2’24”]
<グルスキー> ヒラさんはこの写真からが何かが変更されているように感じると仰いましたよね。その感覚をより具体的に説明できますか?
<ベッヒャー夫人> 私はこの場所の辺りに何かが欠落しているように思います。何かを右に移しましたか?何か定規を使って描画したようになっていて、それは私には何もしていないなんて言うことは受け入れられないし、この部分は疑わしいほどスムーズになっていると思います。
<グルスキー> 事実としては、このイメージでは無駄を避けるための「掃除」をしています。ですから、以前の風景はこのようであったのでしょうが、今ここには石炭発電所が実際にはあるんです。
<ベッヒャー夫人> それだけですか?
[2’24″〜3’00”]
<グルスキー> いいえ、それだけではありません。
<ベッヒャー夫人> 例えば、この前方とこの辺りに?
<グルスキー> いいえ、前景の部分、道路や水へ入る辺りは完全に未処理です。
<ベッヒャー夫人> ええ?それは信じられないわ?
<グルスキー> 本当ですよ。私はこの場所に行き、写真を撮っただけなんです。これは私のジョギングのコースで、とてもよくこの場所を知っています。この写真を撮ると決め、最初のコンタクトシートを見たとき、私の最初の印象が全く上手く出ていませんでした。そしてその最初の印象を苦労して復元・表現・製作したのです。
[3’00”-3’40”]
<グルスキー> この作品の制作を始めた時、川に向かってスライドさせながらいつも東風が吹いていて、水面がとてもスムーズでした。しかし、私は水面が粗れているのが欲しかったんです。そのために反対方向から非常にこだわった風が必要だったんです。
<ベッヒャー夫人> まさにそれがあなたが何かをそっと混じりこませることが出来るからこんなに美しい写真を撮ることが出来るんでしょうね。でもそれを起こらせるのはとても忍耐が必要で、単に偶然に何かが起きるのを望んでできるものではないのですよね。
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このように、グルスキーはライン川というドイツ人にとってはとても身近な自然を自分がジョギングをしている場所でインスピレーションを得、それをこの作品に表現するために様々な試行錯誤を重ね、高度な写真処理技術を駆使してこの作品を作り上げています。
空、対岸の緑の土手、波打つ川、手前の緑の土手と灰色の道。動画でご覧いただけるように、本作品は巨大(73 x 143 in. (185.4 x 363.5 cm))です。
通常私たちの眼が風景をとらえる時にはそこに見える全てに焦点が合っているわけではありません。それに対しグルスキーの作品は通常、人間の目では見えない俯瞰撮影と画面全部に細部にまで焦点を合わせることによって生まれる非現実感を生み出させています。見る人は作品の前でしばし足を止め、作品を眺めることとなります。その時に体感する不思議な、平衡感覚を失うような感覚はグルスキーが創り出す、具象でありながら抽象性を秘めた作品ならではなのだと思います。
今回、写真作品の史上最高値を更新したこともさることながら、グルスキーはまだ存命中のアーティストです。
グルスキーはまだ56歳。これからどのような作品を世に送り出していくのか、私は楽しみにしています。
クリフォード・スティル(Clyfford Still)が史上最高値$61.7M(約47億9千万円)で落札!
米ニューヨークで9日、オークションハウスのサザビーズが開いたオークションで米抽象画家クリフォード・スティル(Clyfford Still)の作品「1949-A-NO. 1」が6170万ドル(約47億9000万円)で落札されました。
これは当初の予想落札価格は2500万ドル(約19億4000万円)~3500万ドル(約27億1500万円)を大きく上回るものでした。また、本落札価格6170万ドルは、1980年に死去したスティルの作品では最高 額で、これまでの最高額だった2130万ドル(約16億5350万円)の、ほぼ3倍の値が付いたことになります。
「1949-A-No. 1」の落札直後にはスティルの「1947-Y-No.2」も予想の2000万ドル(約15億5000万円)を上回る3140万ドル(約24億4000万円)、
「PH-1033」も予想落札価格の1500万ドル(約11億6000万円)を上回る1968万ドル(約15億3000万円)で落札されました。
また、スティルの1940年製作、抽象表現主義絵画へと作風が変化していく頃の作品PH-351も1258万ドル(約9億7800万円)で落札され、今回の4スティル作品の合計で1億2536万ドル(約97億3800万円)となりました。
この話を聞いて、私は今から20年ほど前に初めてクリフォード・スティルの作品を当時はまだサンフランシスコのシビックセンターにあったサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)で見たことを思い出していました。
私が訪ねた日は雨の降るウィークデーの午後。SFMOMAにはあまり見学者もなく、大きな壁面を埋め尽くすように大きなスティルの絵は圧倒的な存在感と暗い色調の中に激しい色の対比として浮き出すかのような黄色や赤の色には衝撃的なものがありました。また展示室はスティル作品群のみで構成されていたので、他の展示室と比べると異次元空間のような感じを持ちました。当時はスティルという画家を知りませんでしたので、こんなアーティストがアメリカにはいるんだ、でもどうして名前を知らなかったのだろうか不思議に思うと同時に、ととても印象に残ったのを覚えています。
クリフォード・スティルは抽象表現主義の画家として有名ではありますが、同じく抽象表現主義のジャクソン・ポロックやマーク・ロスコと比べ、日本ではあまり知名度が高くないように思われます。
今回、本ブログを書くにあたってスティルのことを調べてみて、何故そのようなことになっているかが少し分かったような気がしました。(以下、Wikipediaより翻訳抜粋)
クリフォード・スティル(1904年11月30日 – 1980年6月23日)はアメリカの画家であり、抽象表現主義の主要な人物の一人。第二次世界大戦直後の絵画界に新たな強力なアプローチを開発した抽象表現主義の第一世代の指導者でした。
同時期の抽象表現主義のアーティストとしては、フィリップ・ガストン、フランツ・クライン、ウィリアム・デ・クーニング、ロバート・マザーウェル、バーネット・ニューマン、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコが含まれています。これらのアーティスト達のスタイルやアプローチにはかなり相違があるものの、抽象表現主義は抽象的な形態、表現力豊かなブラッシュストローク、そして記念碑的に大きな作品の規模によって、第二次世界大戦中および終了後にかなりの関連性を扱ったテーマである、創造、人生、戦い、死(”人間の条件”)といった普遍的なテーマを伝えるものとなっています。
抽象表現主義の中でも最も反伝統的なアーティストと言われるスティルはこのムーブメントの基礎を築いたと評価されています。スティルは1938年から1942年の間に、1940年代にはまだ象徴超現実主義絵画を描いていたその他の彼らの仲間たちよりも一歩早く具象画から抽象画への変化しました。
抽象表現主義はニューヨークのムーブメントとして認識されていますが、スティルの造形作品はワシントン州立大学(1935年〜1941年)を初めとする、スティルが西海岸の様々な教育のポストにあった時に作成されています。この時期の彼の作品は農場生活に特徴的な人々、建物、ツール、および機械などの特性を比喩的なスタイルとして表現する作品を多く製作しています。彼は1930年代後半には彼の表現スタイルをより簡略化するために具象画から抽象画へと移りました。
1941年にスティルはサンフランシスコのベイエリアに移転、現在はサンフランシスコ・アート・インスティチュートとして知られている美術学校、California School of Fine Artsで非常に影響力のある教授となりました。彼は1946年から1950年(ニューヨークに戻った1948年夏季休憩を含む)までその学校で教えました。スティルがそれまでのスタイルを”突破”し、独自のスタイルを完成させたのがこの時期でした。
スティルは1940年代後半に長期滞在するためニューヨークを訪問し、世界に新しいアメリカのアートを立ち上げた二つのギャラリー- ペギー・グッゲンハイムのThe Art of This Century Galleryとベティ・パーソンズギャラリー – と関わるようになりました。ロスコは、ロスコの個展を1946年初めに開いたThe Art of This Century Galleryのペギー・グッゲンハイムにスティルを紹介しました。その年の後半スティルはサンフランシスコに戻り、California School of Fine Artsでその後4年間教えました。
スティルは抽象表現主義がアート界で最重要なアートムーブメントとなり、スティル自信が美術界でますます重要になった1950年代の大半をニューヨークに住んでいました。しかし、1950年代初頭にスティルは商業ギャラリーと断絶し、1961年には芸術界から自分自身を切り離す形でメリーランド州に移住します。その後1980年に彼の死まで二番目の妻、パトリシアとメリーランド州に住みました。スティルの死の前年1979年にニューヨークのメトロポリタン美術館では、それまでのスティル作品の大々的調査を行うとともに、存命の芸術家としては最大のプレゼンテーションを開催しました。
しかし、彼の死後、20世紀の最も重要なアメリカの画家とされるスティルの作品で、既にコレクターや博物館などに収集されていなかったすべての作品は、スティルの遺言により公共と学術の両方のからアクセスを閉鎖、封印さることとなりました。
スティルはその遺言で永久コレクションとして彼の作品を展示するところを確立しようとするアメリカの都市にその全財産を寄付すると指定しました。2004年8月にコロラド州デンバー市がクリフォード・スティル遺産に含まれる作品を受け取るためにスティルの妻、パトリシアによって選ばれたと発表しました。
人々から羨望の的となっているこの2,400以上の作品は(825点のキャンバス絵画や1575点の紙上作品-ドローウィングと限定版ファインアートプリントを含む)、スティルの輝かしい経歴期間中と全製作作品の94%近くを占めるものです。同博物館はまた、スティルのスケッチブック、日記、ノート、スティルの蔵書、およびその他のアーカイブを収容することとなっています。これらのほとんどの作品は25年以上、公衆の目にさらされていません。非営利組織である美術館は2011年11月18日にオープンする予定です。
そうです。ここまで読まれた方はお分かりになったかと思いますが、クリフォード・スティルの作品は彼の死後そのほとんどがアート市場に出ることはなく、研究さえもできないような状態であったのです。今回のクリスティーズでオークションにかけられた4作品もこのデンバーにオープンするClyfford Still Museumの運営資金にする為のものだとのことです。
スティルが1950年代に商業ギャラリーと断絶し、1960年代以降は美術界ともつながりを切ったことと、死後25年間もその巨大なコレクションが世に出なかったことで、スティルの作品はコレクターが欲しても手に入らないような状況だったのだと思います。SFMOMAで私が20年ほど前に見ることが出来ていたのはスティルがサンフランシスコの美術学校で教えていたことで関係があったものと判りました。
ぜひ今度機会を見つけてClyfford Still Museumに行ってスティルの作品の全貌を見てみたいと思っています。
*カラー・フィールド・ペインティングとは
「色面絵画」「色彩による場の絵画」と訳されます。抽象表現主義の中でも、大きく身体を動かし、激しい筆致で描いたアクション・ペインティングのポ ロックやクーニングらの線的な 表現とは異なり、見る者を包み込むような大きく拡がる色彩(色面)によって、精神性の高い抽 象画を描いたマーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、クリフォード・スティル、モーリス・ルイスたちの作品をカラー・フィールド・ペインティングと呼び ました。
カラーフィールドペインティングは、大きく拡がる色彩を体感して、何が描かれているのかを言葉で探るのではなく、意味にこだわらずに「感覚」や「感性」で見る、色 彩や形を体験するアートです。
国立新美術館「モダン・アート,アメリカン」-珠玉のフィリップス・コレクション-
東京六本木の国立新美術館で2011年9月28日(水)~12月12日(月)まで行われている「モダン・アート, アメリカン」―珠玉のフィリップス・コレクション-についてです。
ここしばらくは日本と米国東海岸への旅が続き、KYFAのブログのアップデートができておりませんでした。本ブログをフォローしていただいている皆様にはご心配していただいたりして大変申し訳ありませんでした。
さて、今回ご紹介しますのはアート鑑賞にぴったりの時期に行われている本企画で、私が個人的にも興味を持っているアメリカのモダンアート(19世紀半ばから1960年代)のコレクション紹介です。
ヨーロッパ文化の流れをくむアメリカ美術界は20世紀初頭にそれまでのヨーロッパ美術からはかなり飛躍した前衛芸術に大きく感化されます。
フィリップス・コレクションは鉄鋼業で財を成したフィリップス家の三代目ダンカン・フィリップスとその妻マージョリーが収集した個人コレクションがもとになっています。
1921年にアメリカ初の近代美術館として一般公開されて以来、ルノワールの代表作のひとつ《舟遊びの昼食》をはじめ、西欧近代を中心とする優れた作品群で知られる同コレクションは、その一方で、当時まだ評価の定まっていなかった同時代のアメリカ人作家の作品を積極的に購入し、ジョン・マリンやエドワード・ホッパー、スチュアート・デイヴィスら、後にアメリカの代表的作家として認められた若い芸術家を支援したことでも知られます。
今回の国立新美術館が行っている「モダン・アート,アメリカン」展はフィリップスコレクションの中でもアメリカの「モダンアート」に焦点を当て、19世紀半ばからアメリカン印象派、アメリカン・モダンを経て戦後のアメリカ絵画隆盛期までを網羅します。
本展覧会のタイトルとも一致し、目玉作品の一つとしてはエドワード・ホッパーの「日曜日」があげられるのではないでしょうか。
エドワードホッパーは都会の街並みやオフィスで働く人々、映画館、ガソリンスタンド、田舎家など見慣れた都市や郊外の風景と人々を、単純化された構図と色彩、大胆な明暗の対比、強調された輪郭線で描き出したことでよく知られています。
本展覧会の展示作品「日曜日」は1926年の作品。
ここではアメリカの狂騒の20年代ではなく、日曜日で閉まった店の前で何をするともなくタバコを吸う一人の男が描かれています。ホッパーが描き出す人物はその表情からは喜怒哀楽などの表情は読み取れません。そこには都会で生活する者の孤独感のようなものが表現されているのみです。
また、ホッパーのもう一つの作品「都会に近づく」は地方から都会へと向かう旅人の今まさに都市のトンネルへと入り、都会へと入らんとする気分の高揚と、歴然と立ち並ぶビルとその隙間から少しだけ見える青い空に孤独や不安を感じざるを得ません。この絵には人物はいません。作品を観る人が旅人と同じように感じるようになっているのだと思います。
また、アメリカの女流画家として最もよく知られるジョージア・オキーフの作品、「葉のかたち」も展示されています。オキーフは植物や自然、サウスウェストをモチーフにし、独特の官能的表現を通して女性としての感覚・観点から作品を作り出しています。「葉のかたち」も画面いっぱいに広がる葉を幾重にも重ね、それぞれに異なる色、形が観るものを引き込む作品になっています。
オキーフのもう一つの展示作品「ランチョス教会、No.2、ニューメキシコ」も彼女の作風のよく表れた作品と思います。オキーフは1917年にニューメキシコ州を訪れ、その美しさに魅了されます。また1949年からはニューメキシコ州サンタフェに居を移しました。「ランチョス教会、No.2、ニューメキシコ」は干し煉瓦と赤土で作られた教会を大地と繋がるかのように描いた作品で、柔らかい表現とその力強さが対比された作品となっています。
初めてアメリカからそのアート・ムーブメントを発した抽象表現主義を代表する画家ジャクソン・ポロックとマーク・ロスコの作品も展示されています。
ジャクソン・ポロックは現実の風景や姿形等を再現するのはなく、作家の描画行為の場(フィールド)としてキャンバスをとらえ、キャンバスを床に平らに置き、缶に入った絵具やペンキを直接スティックなどでしたたらせる「ドリッピング」という技法で制作で抽象表現主義を世界的なアート・ムーブメントにしました。
ポロックの展示作品「コンポジション」はポロックがその後の抽象表現主義作風を確立する前の作品で、ピカソの影響やシュールレアリスム表現が見られます。
マーク・ロスコの展示作品「無題」はロスコ作品としてよく知られる大型作品ではなく小品です。
この作品が製作された1968年はロスコが大病をし、医師から大型作品の制作を止められた年です。ロスコが描く世界は色と形が微妙に交じり合い内面から光が照らし出されているかのようです。巨大な作品と、観る者に作品と自分との間の距離感をなくしてしまわせる独特の柔らかい光の表現はロスコ作品の典型ですが、本展示作品も商品でありながらロスコが表そうとする世界を限られた大きさの中で表現したものだと思います。
このほかにもフィリップスコレクションより計110点の作品が今回の展覧会では展示されています。
「モダン・アート,アメリカン」-珠玉のフィリップス・コレクション-は12月12日まで東京六本木の国立新美術館にて開催されています。もし機会があればアートの秋を満喫しに行かれてみませんか。
藤田嗣治(Leonard Foujita)の未発表作品確認!
今年の8月末、箱根ポーラ美術館から同館に個人コレクターから今年寄贈された作品群から藤田嗣治(Leonard Foujita)の未発表の油絵作品、37点が確認されたと発表されました。
藤田嗣治(Leonard Fujita/レオナール・フジタ)は猫と女性を描くことを得意とし、日本でも近年再評価がなされ、人気が高いアーティストでご存知の方も多いと思いますが、実はフランスにおいて最もよく知られた日本人近代画家でもあります。
今回の藤田未発表作品確認のニュースに際し、藤田嗣治の足跡をたどってみたいと思い今回のブログとなりました。
1913年(大正2年)に若干27歳で渡仏し、当時その家賃の安さから芸術家が集まったモンパルナスに居を構えます。日本では東京美術学校(現在の東京芸術大学)で西洋絵画を学びますが、当時の画壇の権威であった黒田清輝の印象派や写実主義の技法中心のやり方と相いれず、文展などにも作品を出品するものの落選していました。
モンパルナスではアメデオ・モディリアーニと隣の部屋に住んだことなどからモンパルナスアートグループであったエコール・ド・パリ(パリ派)の芸術家たち(パブロ・ピカソ、アンリ・ルソー等々)と知己を得ることになっていきます。下記の作品は渡仏し、後の藤田の作風が確立されていく過程をよく表す作品群です。
渡仏してすぐに始まってしまった第一次世界大戦の為、日々の生活にも窮した藤田でしたが、終戦を迎えた1918年頃からその面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風(1921年のサロン・ドートンヌでその画風は「乳白色の肌」と讃えられます)と精緻な表現が絶賛を集めます。藤田の日本画を髣髴とさせるような「乳白色の肌」と黒い描線と陰影は当時のパリ画壇でもひときわ衝撃的な表現であったと思われます。こうして藤田はパリに於いて「サロンの寵児」と呼ばれるほどの人気を得、成功をおさめます。これは当時のエコール・ド・パリの仲間たちやモンパルナスのアーティスト達の中では経済的な成功をおさめたものは少数で、、ましてや日本から出てきた異国人としては大変な快挙でありました。
第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパはその後の第二次世界大戦までの間に新しい芸術運動と狂乱にも似た饗宴にあふれ、藤田の東洋のエキゾチズムを湛えた繊細な作品は大変に高い評価を得ました。
1929年に17年ぶりにフランスでの数々の勲章を受章しての日本凱旋を果たします。パリにて藤田を特徴づけていたのは彼の画風もありましたが、彼独特のおかっぱ頭、ちょび髭に丸メガネという格好に、「フーフー(FouFou、お調子者という意味)」というあだ名がつくほどの奇功パフォーマンスでした。
このような奇異な行動と何度も結婚を繰り返し、派手に思われた女性関係から日本画壇では決して芳しくなかった藤田の評判でしたが、帰国後の展覧会では高い評価を受けています。しかしこの年に始まった世界恐慌はその後パリに戻った藤田にも暗い影響を与えます。恐慌で美術市場は低迷。また、それまでのエコール・ド・パリ時代のようにサロンで持て囃されることも少なくなっていました。
しかし、変化を求め1931年に行った南北アメリカでの個展は大成功となります。
その後日本へ戻った藤田は1938年から1年間ほど嘱託を受け従軍画家として画家の小磯良平たちと中国へ赴きますが、1939年に帰国し、そのまま再びパリへと向かいます。しかしながら第二次世界大戦の勃発を受け、翌年パリがドイツ侵攻を受ける直前に再度日本に帰国します。
日本に戻った藤田は家系的に日本の軍部とつながりが大きかったこともあり(父、藤田嗣章は森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄、嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野、従兄は小山内薫)、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請されます。
はじめは乗り気がしないで戦争画に携わるようになりますが、1939年5-10月に起こった「ノモンハン事件」をこの戦いに参加した陸軍中将・荻州立兵から、戦死した部下の霊を慰めるために画を描いてくれと個人的に依頼され「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」を精魂こめて描き上げたことを契機に、そこに新しい表現世界を見出しのめりこんでいきます。
戦時中に数々の戦争画を藤田は描いていますが、その絵のどれもが当時の戦争画の主流であった「戦争賛美」的なものとはかなり違い、戦争の恐ろしさ、惨さを表したものだと思います。藤田の戦争画はフランス・ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワを代表する歴史的戦争画やゴヤの最も有名な戦争画のひとつ「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」を髣髴とさせ、ある意味、殉教画を見ているような気持になります。
しかし、敗戦後、時の日本美術会の書記長・内田巌などにより、「藤田嗣治は戦争に加担し協力した画家である」と批判をうけ、さらに美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQ(担当米国人は藤田の以前からの知り合い)に賛同して協力したことも手伝って、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになります。ある意味、美術界の戦争責任を背負うようにして、1949年に日本を離れフランスに戻ります。
晩年の1955年にはフランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名前から)となります。またこの頃から藤田は子供を題材に多くの作品を仕上げています。
そして最晩年には自ら設計したランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペのフレスコ画に情熱を注ぎました。
そしてその完成を待ったように1968年、スイスの病院で81歳で生涯を閉じました。。
さて、藤田嗣治の生涯をたどったところで、今回の未発表作品が確認されたことについてです。8月30日、神奈川県箱根町のポーラ美術館が藤田嗣治の小画面の作品で、「パイプとタバコ」や「目玉焼きを作る少女」など37点が見つかったと発表しました。晩年の連作「小さな職人たち」の前段階の作とみられ、1956年の秋から58年の夏にかけての作品です。一辺10~30センチ程度の厚紙に、油彩で子供などを描き、裏側に板をはりつける形となっているそうです。藤田はこれらの作品と重なる時期に、「小さな職人たち」という連作にて職人姿の子供たちを板に描いていて、自分のアトリエの壁に飾っていましたが、今回確認された37点の一部はテーマ的に類似しているということです。同館は近くこれらを正式に収蔵し、他の新収蔵作品とともに、来年1月15日まで開催中の「レオナール・フジタ」展に追加出品するとのことです。
調べてみると藤田の5度目の夫人となり、藤田の最期を看取った君子夫人が2009年に98歳で亡くなり、その後、遺族が保有していた作品を購入した個人コレクターが今年に入り同美術館に寄贈したとのこと。
また2011年に入り、藤田の作品補修の為にその絵の分析をすることとなり、藤田の「乳白色の肌」の秘密が明らかになりました。藤田は、硫酸バリウムを人物の下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を 1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていたとのことです。炭酸カルシウムは油と混ざるとわずかに黄色を帯び、また藤田の絵画からはベビーパウダー(タルク)が検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表されました。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明し、藤田がいかに苦心、工夫をし、彼独自の「乳白色の肌」を完成させたのかが判明しました。また、藤田独特の黒い線にて物事を表す表現方法は、面相筆の中に針を仕込むことにより均一な線を描いていた表現したことも修復により判明しました。(ウィキペディアより)
実を言いますと私は、藤田嗣治のことについては今回リサーチをするまでそこまで知らずにいました。おかっぱ頭でパリで日本人として初めて評価された西洋画家であるのはもちろん知っていましたし、その表現の面白さ、東洋と西洋の融合表現など、その独自のテーストにも重きを置いていました。しかし、今回37点の作品新発見により、新たに藤田の経緯を調べたり、戦争画作品の存在を知ったことにより、より藤田の作品に惹かれるものを感じました。
終戦66年を迎え、戦争の為にある意味全く別な大きな渦に巻き込まれたアーティストの作品が今回新たに発見されたことにより、また、戦争画というまったく別な側面を考えながら藤田を考察することを素晴らしいことではないかと思い、ここに記します。
失われたアート”Lost Art”(9/11同時多発テロ事件から10年を迎えるにあたって)
もうすぐあの9/11同時多発テロ発生から10年目を迎えようとしています。
今回は破壊されたワールドトレードセンターに存在した「失われたアート」について書いてみようと思います。(本事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。)
ニューヨーク、マンハッタンに建っていたワールドトレードセンター(以後WTC)は日系アメリカ人建築家のミノル・ヤマサキが建築デザインを行い、1973年に完成しました(’72に1WTC(ノースタワー)、’73に2WTC(サウスタワー)が完成)。WTCは、公共建築や大型ビルを建てる際にその建設費の1%をパブリック・アートの購入に充てるという、現在では全米各地に広まっている条例を適用した先駆的なビル群でしたので、様々な場所でアートを目にすることが多かった建物でした。
1WTCエントランスのロビー中二階壁にはルイーズ・ネーベルソンの作品「Sky Gate」、
2WTCのロビーにはホアン・ミロのタペストリー作品「The World Trade Center Tapestry」 等の大きな作品が、
またWTCビル群の中心であるプラザにはフリッツ・ケーニッヒ (Fritz Koenig) の「The Sphere」が噴水の中心に美しく輝いていました。
この作品はケーニッヒが世界貿易を通して世界平和の象徴を表現したもので、WTCの崩壊後、大きなへこみや裂け目ができてはいましたが壊滅的な破壊はされずに残っていました。
作者のケーニッヒは当初この作品はこのテロで壊れてしまったと述べ、再展示にはあまり乗り気ではなかったとの事ですが、その後、自らがその修復と再展示に携わり、現在は9/11のメモリアルとして近くの公園(バッテリーパーク)に展示されています。
またその周辺には流政之の巨大な御影石の作品「Cloud of Fortress (雲の砦)」、
WTC1とWTC2の間にはジェームズ・ロザッティ (James Rosati) のステンレス製彫刻作品の「Ideogram」などが設置展示されていました。
また1987年のWTC7建設後、アレクサンダー・カルダーの「The World Trade Center Stabile」が設置され、その形が曲がったプロペラのようだということから「曲がったプロペラ(The Cockeyed Propeller)」と親しみを込めて呼ばれていました。同作品はその30%ほどが崩壊した建物から発見されましたが、完全な復元は不可能との決断に至り、残った部分を別の作品にするための作業に入っているとの事です。
その他有名な作品としては、ハント・スロネムの壁画「Fun Dancing with the Birds」、
ロメール・べアデンのタペストリー作品「Recollection Pond」、
ロイ・リヒテンシュタインの「The Entablature Series」、
1993年のWTC爆破事件の犠牲者を追悼するために爆発箇所に作られたエリン・ジマーマン作の「A memorial fountain」等がありました。
また、WTCビルにテナントとして入居していた会社にも多くの美術コレクションがされており、中でも1WTCの101階‐105階というほぼ最上階にオフィスを置き、658人の社員が犠牲となったボンドトレーディング会社のCantor Fitzgeraldはその創始者夫妻がロダン彫刻コレクションで有名で、約300点に上るロダンの彫刻、デッサン等が失われました。
9/11同時多発テロのうち、WTCに於いては2752人の尊い命が奪われ、また、貴重なアート作品の数々が失われました。パブリックアート、会社のアートコレクション等は当時の価格で約1億ドル以上の被害額だったとの事です。
しかし、この同時多発テロ事件をきっかけにアフガニスタン紛争、イラク戦争、今日でも続くテロ爆発として続いており、さらに多くの命や貴重な文化遺産が失われました。人間はアートのように言葉や国境を越えて人々に感動を与えるものを生み出すことができる一方で、その貴重なものを破壊できるものでもあります。
来月に10年を迎える9/11同時多発テロ事件を思い、今回のブログエントリーとなりました。
「対話の画像(Images in Dialogue)」パウル・クレーとアンドリュー・ショルツ
ベイエリア在住でKYFAが提携するMarx&Zavatteroギャラリーがレプレゼントするアーティスト、アンドリュー・ショルツ(Andrew Shoultz)の作品が現在SFMOMAにて「対話の画像(Images in Dialogue)」と題されて2012年1月8日まで特別展示されています。
これはSFMOMAのキュレーター、ジョン・ザロベルがパウル・クレーの作品をベースとしてショルツに作品制作をしてもらい、作品を見る人々にその2つの作品から生み出される「対話の画像(Images in Dialogue)」を感じてもらうという企画提案したことににはじまります。
ショルツは勿論、大作家であるパウル・クレーは知っていましたが、自己の作品がクレーに影響されているとは思わなかったと述べています。しかし、ショルツがクレー作品を研究するにつれ、例えば、繰り返しモチーフとして用いられている「馬」、「街」、「並行する線」など、自分の作品とクレーの作品の間に共通するものが多くあることに気が付き驚きました。
こうしてショルツはSFMOMAからの本企画に挑戦することとし、同美術館のクレー・コレクションの中から数点を選んび、作品製作に立ち向かうこととなりました。今回のショルツの作品制作は通常ショルツが製作する大型作品や手の込んだ展示とは違い、比較の元となる小さなクリー作品に見合う大きさに抑えて制作にあたりました。
その結果本展覧会を見るものに、大作家と現代画家が作品を創り上げていく過程の比較と、如何に時代や世代を超えて共通するものを二人が持っているかなどが分かるという大変興味深いものとなりました。
実をいうと、私もMarx&Zavatteroギャラリーのオーナーに今回の話を聞いたときは、ショルツとクリーに果たして共通点があるのだろうかと思ったのを思い出します。前述のようにショルツの作品は大型作品が多く、またその手の込み様は、あまりにも真剣に見てしまうと、見る者の方が神経を衰弱してしまうほどであり、私が持っていたクリー作品のイメージとはかなり違うものでした。
しかし、今回のこの企画展で、この二人のアーティストがその時代背景を色濃く、また風刺を交えて作品に描き出していることや、クレーの作品が視覚的に魅力的であるだけではなく、観念的な象徴性が作品を見ると自動的に鑑賞者に意識され、かなり細かい統一性を持ちながらリズミカルに表現されていることが、ショルツの描き出す細微にわたった象徴性と繋がることなどを感じました。
1世紀を隔て二人のアーティスト作品がその絵を通して対話をしているような、まさに「対話の画像(Images in Dialogue)」というののふさわしい展覧会になっていると思いました。
もし本企画展が開催中にサンフランシスコに来られる機会があるようでしたら、是非ご覧いただきたいと思います。また、ショルツの作品に関してのお問い合わせがありましたら、お気軽にご連絡ください。
J. ポール・ゲッティーミュージアムとハーブ・リッツ
ロサンジェルスのJ. ポール・ゲッティーミュージアムがファッション・ポートレート・フォトグラファーとして有名なハーブ・リッツ(1952‐2002)の69作品を同ミュージアムのコレクションとして入手したことがハフィントン・ポストに掲載されました。
ハーブ・リッツは1952年カリフォルニア生まれで、大学で経営学を学んだあと、家業の家具店の経営を始めました。1977年に当時はまだ無名であったリチャード・ギア(映画アメリカンジゴロは1980年)のスナップ写真がきっかけとなりプロのフォトグラファーとしてデビューすることとなります。
1980年代の半ばにはアメリカの超有名人達、シルベスタ・スタローン、マドンナ、ジャック・ニコルソン等のポートレートが高く評価されるところとなり、ハーブ・リッツ独特な透明感・みずみずしさといったスタイルが確立されました。
それからは有名雑誌、ヴァニティー・フェアー、ヴォーグ、GQ、ローリング・ストーンなどのカバーを飾りました。ハーブ・リッツが創り上げたファッション、コマーシャリズム、アートを融合させた写真はファッション雑誌で彼の作品を目にしないことはないくらいの人気でした。
しかし、2002年12月にハーブ・リッツはそのキャリアの最頂点にいる時、突然肺炎合併症で若干50歳で亡くなりました。
ゲッティーミュージーアムで写真部シニア・キュレーターのジュディス・ケラー女史は「ファッション界で芸術と商業の垣根を曖昧にするところとなったハーブ・リッツの重要なコレクションを入手できたことを大変喜んでいます。」「このコレクションのお陰でゲッティーミュージアムのファッション・フォトグラフィー部門が充実するとともに、ロサンジェルスを拠点とするアーティストの作品を収集するという私たちのコミットメントも満たすものです。」と述べています。
また、今回の作品収蔵にあたり多くの作品を寄付したハーブ・リッツ財団のディレクター、マーク・マッケイナ氏は「ハーブ・リッツはロサンジェルスの生活を余すところなく取り入れ、それが彼の作品に明確に表されています。」、「ハーブ・リッツの作品が権威のあるゲッティーミュージアムに収蔵されその場所が彼が愛してやまなかったロサンジェルスになるということはなんと素晴らしいことでしょう。」と言っています。
収蔵作品の主なものは芽を出し始めたばかりの新しいアメリカのヒーローを写し出した「Richard Gere」(1977年、サン・ベナーディノ市にて撮影)、
アメリカ人オリンピック飛び込み競技メダリストのポートレート作品、「Greg Louganis」 (1985年、ハリウッドにて撮影) 、
日本人ファッションデザイナー、三宅一生のドレスを写した「Wrapped Torso」(1988年、ロサンジェルスにて撮影)、
スーパーモデルの時代を確立させるかのような超有名ファッションモデルのグループポートレート作品「Stephanie, Cindy, Christy, Tatjana, Naomi」 (1989年、ハリウッドにて撮影)、
ヴェルサーチの最初のクチュールカタログを飾った作品「Veiled Dress」(1990年、エルミラージュ市にて撮影)や
世界的な舞踏家「Bill T. Jones」をシリーズで写し出した作品などです。
今回コレクションされる作品中には今迄展示、オリジナルプリント製造されたことがなく、ハーブ・リッツ財団に収められている以外には外に出たことがない作品などを含んでいます。
今回のゲッティーミュージアムのハーブ・リッツコレクション収蔵で、ロサンジェルスのアートシーンにまた新しいアトラクションが増えたことは間違いないような気がします。
今日は何の日?ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)の誕生日
今から187年前の今日、1824年8月4日にLouis Vuitton Malletier(ルイ・ヴィトンの創業者)が誕生しました。
ルイは1854年に旅行用カバンの専門店をパリにて創業。その後、1867年のパリ万国博覧会でメダルを獲得し、世界的な評価を得ることとなりました。
当初の旅行用カバン(主にスチーマートランク)は木地にモノトーンの耐水カンバス張の技法でしたが、名声に乗じたコピーが出回ってしまい、1872年にベージュと赤みがかった茶色のストライプを配したカンバスのデザインを使用してこの対策を図りましたがこれもコピーされるところとなり、今度は1888年にベージュと茶褐色のチェックにヴィトンの銘が入った「ダミエ・ライン」を考案し、エッフェル塔が建設されたパリ万博で金賞を受賞するに至りました。
しかしこの「ダミエ・ライン」は商品登録されていたにもかかわらずやはりコピー商品が出回ってしまい、1896年に後にヴィトン社のトレードマークとなる「モノグラム・ライン」が誕生することとなりました。
ヴィトン社はこの頃既にに創始者のルイから息子のジョルジュの経営に代わっていて、ジョルジュは新興国として巨万の富を築き、富裕層が多くいるところとなったアメリカにその販路を拡大し、また、当時まだ黎明期であった自動車に目を付けそれ用の旅行鞄を創作するなど、ヴィトン社の黄金時代を築きました。
ご存知の方も多いと思いますが、ヴィトンの「モノグラム・ライン」は日本の家紋を基にしています。欧州の家紋は複雑に家系や婚姻を表すロゴが多かったのですが、開国により欧米の人々に「ジャポニズム」というブームを19世紀にもたらした日本の家紋デザインは極端にその表現するものをデザイン化し、シンプルに表しています。
コピー商品との戦いを続けていた(現在でもそうですが)ジョルジュがこの日本の家紋にヒントを得てルイ・ヴィトンの「モノグラム・ライン」を作り出したのは、どこか日本人のヴィトン好きと関係がありそうだと思うのは私だけでしょうか。
実をいうと私は昔ヴィトンのロゴがどうも好きになれませんでした。80年代には日本のバブル景気とともに如何にも「ブランド物」というイメージが強すぎて、そのひけらかすというかあからさまという様なロゴを持つ製品が何故そのように人気があるのか理解に苦しみました。
しかし、ある頃からヴィトン社の歴史、その品質管理、イノベーション性等を学ぶうちに時代を経ても変わらない人気が次第に分かるようになりました。
今から100年ほど前に製造されたヴィトンのスーツケースを手に入れた時にそのクオリティーに目を見張り、ヴィトンの製品をもっと知りたいと思うところから始まりました。
100年以上も前に作られた物であるにもかかわらず、現代の製品とほぼ同じデザインで、現役としても十分に使用できる状態のものでした。時代を経ることにより実用品として造られたそのスーツケースは勿論疵があったりしましたが、人々に愛され使われてきたからこそ生まれるアンティークの家具のようなパティーナや威厳がそこにはありました。
このように古い、アンティークのヴィトン製品には新しい製品が持ちえない存在感があります。この素晴らしい魅力を求めてヴィンテージのヴィトンを扱うところが幾つかあります。例えばミラノにあるバーナーディーニ・ラグジャリーヴィンテージやロンドンのアンティークの店ベントレー等です。(KYFAでもアンティーク・ヴィトンを扱っております。ご興味のあられる方はお気軽にご連絡ください。)
また、ヴィトンを愛してやまない方にはパリから半時間ほどの所にLouis Vuitton Heritage House(Louis Vuitton Museum in Asnières)があります。ここにはヴィトン一家が1964年まで住んでいた住居と特別注文製品を製作する工房があり、見学することができます。
パリにあるヴィトンのミュージーアムももちろん素晴らしいですが、この場所はルイ・ヴィトンが住んでいたところで、ここからヴィトンの歴史が始まったと思わせる何とも情緒豊かな場所です。
もしもっとルイ・ヴィトンの素晴らしいクリエーションをお知りになりたい方には「100 Legendary Trunks Louis Vuitton」という本があります。これまでにルイ・ヴィトンが創り出した素晴らしい作品の数々が美しい写真とともに掲載されています。
今日は150年の時を経ても人々を魅了するルイ・ヴィトンの誕生日ということで本エントリーとなりました。
現代絵画巨匠ルシアン・フロイド死去のニュース(Lucian Freud, British Painter who redefined portraiture, is dead at 88)
今月20日にイギリスを代表する現代画家のルシアン・フロイドが88歳で亡くなりました。
ルシアン・フロイドは著名なオーストリアの心理学者で夢判断などの著書でも有名なフロイドの孫で、ドイツのベルリン生まれ。1933年にナチスドイツの迫害を恐れたフロイド一家がイギリスに移住し、1939年にイギリス市民権を取得しました。
ルシアン・フロイドの初期の作品はシューレアリズムを連想させ、人々や植物が風変わりな仕方で隣り合っていて、絵具の塗厚は比較的薄いものでした。しかし 1950年代からは肖像画、特に厚い塗りでヌードを描くようになり、その色調はグレーや褐色などの落ち着いた色遣いで表現することが多くなりました。
ルシアン・フロイドは現代肖像画家としてはもっとも有名であるといっても過言ではなく、2005年には彼の描いた有名なファッションモデルのケイト・モスのヌード肖像画が390万ポンド(約7億7千万)で落札されて話題になったり、2008年5月には存命中の画家としてはオークション落札額で最高価格の記録となる3360万ドル(当時の額で約35億3千万円)で女性のヌード肖像画が落札されたことでも有名になりました。
以下の絵が2008年に存命画家作品として最高値を付けた「Benefits Supervisor Sleeping」。
豊満というより肥満体の裸婦像。しかしそこに表現されるのは数千年もの間ほとんど変わることなく描き続かれた裸婦がソファーに横たわるというモチーフ。背景のグレーのドレープとこげ茶色の床により、あくまでも抑えられた室内の色調。画面のほぼ全部を占めるソファーはそのテキスタイルの肌触りまで感じてきそうです。そしてそこに横たわる巨大な裸婦の肌にはどこからともなく光がさし、この作品を観る人がこの作品を見てしまうとどのように表現してよいのかわからないような感覚に陥るのと同時に何とも強い印象にくぎ付けになってしまいます。
ルシアン・フロイドが描く肖像画はほとんどが裸体で、その独特な絵画表現はモデルの内面性をも表現するものでした。ルシアン・フロイドは作品にかける時間が大変長いことで有名で、1作品に1年以上かけることも稀ではなかったようです。また、コミッションで肖像画を描くことは少なく、そのほとんどのモデルは彼の身近な人物が多く、家族、友人、知人で、ただ床、椅子、ソファー、ベッドに座るか横たわる構図で、モデルを前に数時間描き続けてはそれを繰り返す創作活動でした。長時間をかけてそのモデルを見つめ、その人物の内面の内面まで見尽くすような様はある意味祖父であるフロイドの心理分析に似ているのかもしれません。
ルシアン・フロイドの作品は単に美しいというよりも人間の生と性、表面と内面が同時に表わされた力強さを観る者に与えるものだと思います。また、多くの作品には人物モデルと同時に動物が配されることが多く、人物と動物のコントラストもとてもユニークなものと思います。
ルシアン・フロイドの絵画は時代が移り、彼と同じ時代に生きた人々がいなくなっても、過去の偉大な画家たちがそうであったように私達の時代を象徴する画家として人々に強力な印象を与え続けていくことと思います。